Se connecter『殺されたからです』
死んだ相馬透の声が、三階女子トイレの天井から降ってきた。
奈々香が息を呑む。
美月は反射的に廊下の方角を見た。悠斗は何かを言おうとして口を開いたが、言葉にならない。
澪だけは、その場から動けなかった。
声があまりにも透だった。
低く、少し掠れている。語尾を必要以上に伸ばさず、問いへ短く答える話し方。八年前から変わらない。
けれど透は死んでいる。
二年七組へ安置したまま。
澪自身、その身体を担架に乗せた。
『俺は聞いてしまった』
校内放送が続く。
五人の呼吸が止まった。
『八年前に消された音を』
ざらり、と雑音が混じる。
古いスピーカーの膜が震えている。
『犯人は、ずっと一緒にいた』
「止めろよ」
悠斗が天井を睨んだ。
「誰だ。何がしたい!」
返事はない。
代わりに、七刻女学校の始業ベルが一音だけ鳴った。
かあん。
余韻が消える。
「放送室」
朔が言った。
「発信元を確認する」
「透のところへ戻るの?」
奈々香の声が震えた。
「嫌ならここで待つか?」
「一人では絶対に残らない」
「なら五人で行く」
朔は骨伝導装置を入れた証拠袋を機材鞄へしまった。
動きには淀みがない。
澪はその横顔を見た。
頼りたい。
だが、奈々香の髪から落ちた装置を触る朔の指を見てから、胸の奥にある小さな疑いが消えなかった。
音響。
映像。
遠隔操作。
録音。
偽の映像。
朔の知識が役に立つたび、その知識でこれらを作ることもできるのだと気づいてしまう。
五人は管理通路を戻った。
細いコンクリートの壁に貼られた自分たちの写真が、懐中電灯の光を受けて一枚ずつ浮かぶ。
美月の病院。
奈々香の配信場所。
悠斗の会社。
澪の取材先。
そして、室内から撮影された朔。
奈々香は朔の写真の前を通るとき、顔を上げなかった。
朔も何も言わない。
校内放送では、透の声が途切れ途切れに続いていた。
『ずっと……』
雑音。
『近くに……』
また雑音。
『見ていた』
「細切れに聞かせるな」
悠斗が吐き捨てる。
「意味を持たせたいだけだ」
「そうかもしれない」
朔が答えた。
「そうじゃなければ?」
美月の問いに、朔は歩みを止めなかった。
「確認するしかない」
二年七組の前へ着く。
まず、朔が設置した小型カメラを確認した。
まだ動いている。
録画表示も正常。
扉と枠へ貼った封印用のテープは切れていなかった。
上側。
下側。
油性ペンで入れた細い印もずれていない。
「誰も開けてない」
美月が言う。
朔は扉の細いガラスへ懐中電灯を向けた。
教室の奥。
机の上へ横たえた透の姿が見える。
美月が掛けた上着。
胸の上で重ねた両手。
顔へ被せた薄い布。
置いたときのままだった。
「動かされてない」
美月の声が僅かに和らぐ。
奈々香がガラスへ顔を近づけた。
「本当に……透はここにいる」
その瞬間。
天井から透の声が流れた。
『澪』
奈々香が悲鳴を上げて後退した。
澪も身体を強張らせる。
『聞こえてる?』
「返事するな」
朔がすぐに言った。
放送はそこで止まった。
二年七組の中では、透は動かない。
声だけが校舎を歩き回っている。
「放送室へ行く」
朔が先に歩き出す。
今度は廊下が歪むこともなかった。
防火シャッターは上がったまま。
透が死んだ放送室の扉も、破壊された状態で壁へ立て掛けられていた。
内部に入る。
血の臭いはまだ薄く残っていた。
透が倒れていた場所には、黒ずんだ血痕。
切断された磁気テープ。
美月が手袋を替え、床を確認する。
「変わってない」
朔はオープンリール式録音機を見る。
停止させたはずの機械に、新しいテープが装着されていた。
先ほどまで掛かっていた〈七人目〉のラベルはない。
白い紙だけ。
何も書かれていない。
「誰か入ったのか?」
悠斗が扉を振り返る。
「ここの封印はしてなかった」
「でも、二年七組の前を通らずに来られる?」
「壁の中を使えば」
美月が答えた。
管理通路。
放送室までつながっている。
「再生を止める」
朔が録音機へ近づいた。
二枚のリールは回転している。
校内放送と同じ透の声が、ここでも小さく聞こえていた。
『ずっと一緒にいた』
朔が停止ボタンを押す。
リールが止まった。
部屋の中の声も止まる。
しかし。
天井のスピーカーからは続いていた。
『八年前から』
五人が天井を見る。
「この録音機じゃない」
澪が呟く。
「そうだ」
朔は放送卓を調べ始めた。
古い機材。
断線した配線。
外されたアンプ。
どれも電源は入っていない。
それでも、スピーカーから透の声は流れる。
『聞いてる?』
奈々香が両耳を押さえかけ、美月に手首を掴まれた。
「耳を塞がないで」
「分かってるけど!」
「さっきの指示がまだ有効か分からない」
奈々香は唇を噛み、手を下ろした。
朔が壁へ近づく。
放送卓の裏。
以前、透明な糸が吸い込まれていた小さな穴の周囲を叩く。
一か所だけ音が軽い。
「板がある」
工具を差し込み、壁材を外す。
中から黒い箱が現れた。
掌二つ分ほどの小型コンピューター。
冷却用の小さなファン。
音声出力装置。
無線受信機。
配線は天井裏へ伸びている。
「新しい」
悠斗が言う。
「これも今夜のため?」
「少なくとも学校に元からあったものじゃない」
朔は機器の表示を確認した。
端末へ接続する。
画面に複数の音声ファイルが並んだ。
相馬透。
雨宮澪。
神代朔。
早乙女美月。
黒瀬悠斗。
白石奈々香。
そして。
椎名澄花。
「全員分……」
澪の喉が乾く。
「録音素材がある」
朔が透のフォルダを開いた。
何百もの短い音声。
『そこには誰もいない』
『音を止める』
『待って』
『違う』
『澪』
高校時代から現在まで。
断片的な言葉が大量に保存されている。
「こんなにあれば」
奈々香が言う。
「透の声を切って並べれば、何でも喋らせられるんじゃない?」
「単純な切り貼り以上だ」
朔は別のプログラムを開いた。
声紋の解析。
音高。
発音。
話速。
表示された項目を見て、悠斗が眉を寄せる。
「何だよ、それ」
「音声合成」
朔が答える。
「過去の音声を大量に学習させて、本人に近い声を作る」
「死人にも好きなことを喋らせられる?」
「できる」
「どの程度」
「素材と精度次第では、短い会話なら聞き分けるのは難しい」
奈々香の顔からさらに血の気が引いた。
「じゃあ、さっきの透も」
「合成だった可能性は高い」
「『殺された』も?」
「そうだ」
澪は透のフォルダを見た。
声。
息。
笑い。
咳払い。
一人の人間が、音の部品へ分解されている。
「澄花のもある」
美月が言った。
朔がフォルダを開く。
八年前の映像から抜いたらしい声が並んでいる。
『澪ちゃん』
『朔』
『奈々香』
『返して』
『開けて』
澪の胃が締めつけられる。
八年間、夢の中で繰り返してきた澄花の声。
そのいくつかも、今夜は機械に作られたものだったかもしれない。
「これなら全部説明できる」
悠斗が朔を見る。
「声に関してはな」
朔は画面から目を逸らさない。
「少なくとも、放送から流れたものの多くは」
「こんなものを作れるのは、お前じゃないのか」
放送室の空気が止まった。
悠斗の声は低かった。
奈々香が朔を見る。
美月も何も言わない。
「映像も音も扱える。俺たちのデータも持ってた」
「俺以外にも作れる」
朔は平静だった。
「俺たちの声を全部持ってる人間が?」
悠斗が一歩詰める。
「澄花まで入ってる。八年前の音声だ。公開してないものもあるんじゃないのか」
「警察へ提出した」
「だから?」
「提出したデータが外へ出た可能性はある」
「警察から八年間も保管して、こんな仕掛けを作った奴がいるって?」
「可能性の話だ」
「提出前の未編集は?」
悠斗の問いに、朔が黙った。
「持ってたのは誰だ」
「俺と透」
「透は死んだ」
「今夜より前には生きていた」
「つまり、透が自分を殺す装置まで準備したって?」
「そうは言ってない」
悠斗の笑いは乾いていた。
「都合のいい答えばかりだな」
澪は朔を見た。
横顔は変わらない。
だが右手の親指が、カメラの縁を一度だけ強く押した。
緊張したときの癖なのか。
澪は知らなかった。
八年前から隣にいたのに。
『澪』
突然、スピーカーから声がした。
透。
朔がすぐに天井を見る。
『質問して』
澪の心臓が跳ねる。
「応答するな」
朔が言った。
『澪』
「仕掛けた人間が、こちらの声を聞いてる。反応すれば情報を渡す」
『聞きたいことがあるでしょう』
透の声は穏やかだった。
奈々香が首を振る。
「無視しよう」
美月も澪を見る。
「朔の言う通り。相手に合わせる必要はない」
澪はスピーカーを見上げた。
音声合成。
過去の素材。
声を作れる。
なら。
「一つだけ」
朔が澪の腕を掴んだ。
「やめろ」
「確かめたい」
「何を」
「事前に答えを用意できないこと」
朔の目が僅かに細くなる。
悠斗も口を閉じた。
澪は息を吸った。
「透」
スピーカーが小さく鳴る。
『何』
問いに対する返事。
早すぎる。
澪は喉の震えを押さえた。
「あなたが最後に聞いたのは、誰の声だったの?」
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
小型コンピューターのファンが回る。
朔は画面を見た。
何かが処理されている。
音声を自動生成しているのなら、問いを認識し、返答を作っている可能性もある。
だが。
『俺の声』
透が答えた。
澪は眉を寄せる。
「自分の?」
『そう』
「何を言っていたの?」
今度は沈黙が短かった。
『振り返るな』
澪の背筋が冷えた。
美月が朔を見る。
「その言葉、素材にある?」
朔は透のフォルダを検索する。
「少なくとも一覧にはない」
「死亡直前の録音は?」
「ない」
「八年前の映像にも?」
「確認した範囲ではない」
悠斗が小型コンピューターを睨む。
「自動で答えを作ってるだけだろ」
「できるの?」
奈々香が訊く。
「今の装置にどこまでの機能があるか調べないと分からない」
朔はそう答えた。
完全な否定ではない。
だから、透の声が本物だとも証明できない。
「振り返るなって、誰に言ってたの」
澪が問う。
返事はなかった。
「透?」
雑音。
その奥で、死者が息を吸う。
『鏡の裏を調べろ』
五人の顔が強張った。
『七不思議を動かしている部屋がある』
悠斗がすぐに舞踊室で見つけた通路図を広げた。
「鏡の裏って、舞踊室の裏部屋か?」
『もっと奥』
「透、どこ?」
美月が思わず訊く。
朔が制止するより早かった。
『壁の中』
奈々香が身を縮める。
朔は小型コンピューターの処理履歴を確認した。
「今の応答も、この機械から出てる」
「だから偽物?」
澪が訊く。
「発声自体は合成されてる可能性が高い」
「内容は?」
朔は答えなかった。
機械が自分で作ったのか。
誰かが離れた場所から入力しているのか。
それとも。
別の何かが、この装置を借りて喋っているのか。
舞踊室の方角から、低い起動音が響いた。
ぶうん。
大型の機械へ電源が入る音。
続いて壁の中を、複数のリレーが順番に切り替わっていく。
かち。
かち。
かち。
赤や黒の配線に、小さな表示灯が次々と灯った。
「管理通路」
朔が機材鞄を持つ。
「何か起動した」
五人は放送室を出た。
壁の中の通路へ入る。
先ほどまで暗かった配線が、奥へ向かって順番に赤く点灯している。
一本の道を示すように。
舞踊室の裏を越え。
音楽室の背後を通り。
さらに図面にはない方向へ続いていく。
遠くで、機械のファンが何十台も一斉に回るような低い音がしていた。
そして通路の壁へ、白い光で一言だけ浮かび上がった。
管理室へようこそ。
校門を越えた瞬間、五人のスマートフォンが一斉に鳴った。 短い通知音、着信を知らせる振動、圏外から通信網へ復帰したときの表示が重なり、雨上がりの山道に不自然なほど生活の音が戻ってくる。澪は足を止め、画面の左上に立ったアンテナ表示を何度も確かめた。つい数歩前まで、一度も外部へつながらなかった端末だった。「電波、戻ってる」 奈々香の声は掠れていた。濡れた衣服の上から美月に渡された保温シートを巻き、両手でスマートフォンを握っている。「警察」 美月はそれだけ言うと、すぐ緊急通報を始めた。 悠斗も別の番号へ電話を掛け、管理会社へ現在地と校門の開放を伝えている。朔は校舎を振り返ったまま、小型カメラの録画を止めなかった。夜の底に沈んだ七刻女学校は、さっきまで五人を閉じ込めていた建物とは思えないほど静かだった。 澪は喉を押さえながら、門の内側を見た。 透を連れて出られなかった。 二年七組へ戻ったとき、遺体は消えていた。封印は破られておらず、窓も開いていなかった。それでも簡易担架の上には、〈七刻女学校・八人目〉と書かれた濡れたカセットテープしか残されていなかった。「相馬透さん、二十九歳。意識なしではなく、死亡を確認しています」 美月の声が電話口で硬くなる。「救命救急に勤務しています。私が頸動脈、呼吸、瞳孔を確認しました。首に強い圧迫痕がありました。遺体が……今は見つからないんです」 相手が何を訊いたのか、美月は一度目を閉じた。「いいえ、説明が難しいのは分かっています。でも、死んでいました。五人全員が確認しています」 雨はほとんど上がっていた。 雲の切れ間から、東の空だけが薄く白み始めている。夜明け前の冷えた風が山から降り、濡れた木々の匂いを運んできた。 澪はその風の中で、初めて自分の身体がひどく震えていることに気づいた。 怖かったからだけではない。 疲労。 寒さ。 そして、透を置いてきたという感覚。 いや。 置いてきたのではない。 消えた。 その違いを、頭が受け入れようとしなかった。 最初の警察車両が到着したのは、空が灰色へ変わり始めた頃だった。 続いて救急車、所轄の捜査員、鑑識車両。山道の入口から校門まで白と赤の灯りが連なり、七刻女学校は短時間で封鎖された。五人は一人ずつ毛布を渡され、別々に事情を聞かれることになった。 澪は
映像は、何度止めても同じ場所から始まった。 雨に濡れた七刻女学校の校門。 錆びた鉄柵。 まだ誰も到着していない山道。 そして、午後十時四十分を少し過ぎた時刻。 黒い雨具を着た人物が、画面の左端から現れる。 理科準備室の床へ置かれた古いビデオカメラを囲み、五人は黙ってその姿を見つめていた。 人物は深くフードを被っている。 顔は見えない。 背丈は朔や悠斗と大きく変わらないようにも見えるが、厚い雨具のせいで肩幅すら判別しづらい。歩幅も一定ではない。わざと特徴を消して歩いているようだった。 人物は門の前で立ち止まる。 腰を屈める。 地面へ置かれていた太い鎖を拾った。「巻き戻して」 美月が言った。 朔が映像を数秒戻す。 黒い人物が鎖へ触れる直前。 門にはまだ、六つの木箱がない。 再生。 人物は鎖を外し、門扉を人一人が通れる幅だけ開いた。 そのあと画面の外へ消える。 二分ほどして戻ってきたとき、両手に古い木箱を二つ抱えていた。 一度。 二度。 三度。 往復し、六つの箱を門前へ並べる。 雨宮澪。 神代朔。 早乙女美月。 黒瀬悠斗。 白石奈々香。 相馬透。 それぞれの名札を確認するように、人物が一つずつ蓋へ手を置く。「最初から、こいつが置いた」 悠斗の声が低くなった。「箱も。鎖を外したのも」「装置の起動時刻とも近い」 朔は監視室で撮影した操作記録を呼び出し、時刻を照らし合わせる。「管理者の最終ログインが十一時七分。その前後に、各部屋の制御装置が待機状態へ入ってる」「この人がやった?」 奈々香が訊く。「可能性は高い」「透を殺したのも?」 声が震える。 誰もすぐには答えなかった。 画面の中で、黒い人物は最後の箱を置き終えると、校門を抜けて校舎へ向かっていく。 右手には撮影用のカメラ。 左手には小さな黒い鞄。 管理通路にあった装置を操作するための端末が入っていたとしても不思議ではない大きさだった。「待って」 澪が画面へ近づいた。「手」 黒い人物が雨具のフードへ触れる。 袖口が少し上がる。 右手首に腕時計。 黒い文字盤。 銀色の縁。 太い革のベルト。 悠斗が自分の手首を隠すように腕を下ろした。 八年前の映像。 理科準備室へ澄花を押し込んだ人物。 画面の端へ一瞬だけ映
紫外線の光に浮かんだ文字を、五人はしばらく見つめていた。 私はここから出た。 でも、誰かがもう一度連れ戻した。 壁材へ染み込んだ文字は、表面だけに書かれたものではなかった。美月が手袋をつけ、剥がれかけた塗装の端を慎重に確認する。紫外線を角度を変えて当てると、文字の輪郭は壁の内側まで残っていた。「最近書いたものじゃない」 美月が低く言った。 澪は振り返る。「分かるの?」「塗装の上に書かれてるんじゃない。古い層まで染みてる。少なくとも、今夜誰かが書いたとは考えにくい」 悠斗が焦げた壁へ近づく。「八年前?」「断定はできない。でも、その可能性は高い」 奈々香が両腕を抱いた。「じゃあ、本当に澄花が書いたの?」 誰も答えられなかった。 だが筆跡は澄花のものだった。 音楽室の楽譜。 心霊研究会の古いノート。 高校時代、澄花が何度も書いた丸みのある文字と一致している。 澪は一行目を見た。 私はここから出た。 胸の奥で、八年間動かなかった何かが崩れた。「じゃあ……」 声が掠れる。「私が澄花を置いて逃げたあとも、生きてた」 美月が澪を見る。「そうなる」「準備室から出た」「少なくとも、これが本人の記録なら」 澪は焦げた扉を見た。 八年前の自分。 開かない扉。 助けを求める澄花。 背後から腕を掴んだ誰か。 そして、自分は逃げた。 その記憶を、ずっと澄花の最後だと思っていた。「私が見捨てたから死んだんじゃない」 言葉にした瞬間、胸が軽くなることはなかった。 むしろ別の重さが加わった。「でも、誰かがもう一度連れ戻した」 壁の二行目。 美月の目がそこへ落ちる。「一度出た澄花を、誰かが捕まえた」「事件の翌日まで生きてたなら」 悠斗が検査記録を見る。「その誰かは、警察が捜索してる最中にも校内を動けたってことになる」「管理通路を使えば」 奈々香が言う。「見つからずに動ける」 朔は無言で壁の文字と通路図を撮影していた。 澪はその横顔を見て、胸元の手帳へ指を当てた。 まだ隠している。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文が、いままでよりはっきりと意味を持ち始めていた。「翌日」 美月が突然呟いた。 澪が見る。 美月は小瓶を握ったまま、視線を床へ落としている。
管理通路は、理科準備室の裏側へ近づくほど狭くなった。 古い給水管と新しい電線が頭上で絡み、ところどころ壁から剥き出しの鉄骨が突き出している。五人は身体を横へ傾けながら、一列になって進んだ。 先頭の朔が足を止める。「この先だ」 懐中電灯の光が、コンクリート壁の小さな表示札を照らした。 理科準備室。 文字を見ただけで、澪の呼吸が浅くなった。 胸の奥へ冷たい指を差し込まれたように、息が途中で止まる。 八年前。 濡れた木の扉。 爪で何度も表面を引っかく音。『澪ちゃん、開けて』 澄花の声。 取っ手へ両手を掛けた自分。 そして、背後から腕を掴んだ誰か。 耳元へ落ちた低い男の声。『もう助からない』「澪」 朔の声で、記憶が切れた。 目の前に彼の肩がある。「止まるか」「止まらない」 答えるまでに一度、唾を飲み込んだ。「行く」 朔は何も言わず、歩幅を少しだけ落とした。 管理通路の終わりに、点検口があった。 内側から押すと、薄い金属板が動く。その向こうは理科準備室へ続く小さな物置だった。五人は順番に這い出し、埃の積もった床へ降りる。 澪が最初に見たのは、扉だった。 廊下側へ通じる木製の扉。 表面の下半分が黒く焦げている。 焼けた木は波打ち、取っ手の周囲には熱で膨らんだ塗膜が固まっていた。 八年前の火災警報。 白い煙。 鼻の奥へ、存在しない焦げ臭さが戻ってくる。「焼け跡は古い」 悠斗が低く言った。「事件のときのままだ」 美月が扉へ近づく。「でも、鍵は違う」 錠前だけが新しかった。 銀色の金属はほとんど錆びておらず、焦げた木製扉へ無理に埋め込まれている。螺子にも新しい傷が残り、数年以内に交換されたことは明らかだった。「こっちからは開かない」 朔が取っ手を回す。 内側のつまみすら動かなかった。「管理通路から入れるのに、わざわざ廊下側を新しい鍵で閉じてる」 美月が眉を寄せた。「誰かを閉じ込めるため?」「あるいは、外から入らせないため」 朔は工具を出した。 細い金属片を錠前の隙間へ差し込み、内部の位置を探る。二度、三度と角度を変える。 かちり。 小さな音。 錠が外れた。 扉は数センチだけ開き、廊下の暗闇が見えた。 その隙間から、爪で木を掻く音が聞こえた。 きい。 澪の身体が固まる。
第二犠牲者の名は、黒く塗り潰されたままだった。 監視室の机に置かれた進行表。その紙面を覆う黒いインクは、何度光を当てても下の文字を透かさない。 澪は指先で紙の端を押さえたまま、息を詰めていた。 すぐ背後で聞こえた椅子を引く音は、もう消えている。 振り返っても、監視室には五人しかいなかった。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 そして澪。 十数台のモニターから漏れる青白い光が、全員の顔を不健康な色へ染めている。機械の冷却ファンが低く唸り、壁内を走る新しい配線の表示灯が一定の間隔で瞬いていた。 右端の画面。 図面には存在しない教室。 制服姿の少女は、先ほど引いた椅子の横へ立っている。 顔は見えない。 背を向けたまま、次に座る誰かを待っているようだった。「台本、全部見せて」 美月が言った。 朔が進行表を机の中央へ移す。「触るなら手袋を」「分かってる」 美月は薄い手袋をつけ、透の死亡が記された頁を慎重にめくった。 次の頁には、七不思議ごとの準備項目が並んでいる。 必要機材。 想定反応。 対象者。 誘導文。 その書き方に、悠斗の目が止まった。「待て」 身を乗り出す。「ここ」 指したのは、十三段目について書かれた箇所だった。 〈異常を否定する者を先行させ、残りの反応を撮影する〉 短い一文。 悠斗の顔から血の気が引いた。「これ……俺が書いた」「今夜?」 奈々香が訊く。「違う」 悠斗は首を振った。「八年前だ」 監視室が静かになった。「心霊研究会で、探索計画書を作った。どの場所をどう回るか、誰が先に入るか。動画として面白くなる順番も決めた。そのとき使った言い方だ」「同じ文章?」 美月が問う。「ほぼ同じ」 悠斗は進行表をめくった。 音楽室。 〈音の発生源を確認する者を先に室内へ入れる〉 舞踊室。 〈最後尾の人物だけ遅れているように見せる〉 放送室。 〈実際の声と録音を混ぜ、どこから聞こえているか判断できなくする〉 悠斗の指が止まる。「これも」「全部、昔の計画書に?」「そのままじゃない。でも言葉の癖が同じだ」 朔が一冊の黒いファイルを開いた。「八年前の計画書は残ってるのか」「警察に提出したはずだ」「複製は?」「部室のパソコンにあった」「誰でも見られた?」「部員なら
管理通路は、人間が歩くために作られたというより、建物の臓腑へ無理に押し込まれた裂け目のようだった。 肩幅ほどしかないコンクリートの壁。頭上には錆びた水道管と、後から増設された新しい電線が何本も絡み合っている。古い鉄から落ちる赤錆と、樹脂被膜のまだ新しい匂いが混ざり、湿った空気が喉へまとわりついた。 五人は一列になって進んだ。 先頭は朔。その後ろに澪、美月、奈々香、最後を悠斗が歩く。 誰も背後を空けたくなかった。 だからといって、この狭さでは振り返ることも難しい。 壁に固定された赤い表示灯が、一つ先へ進むたび順番に点灯していく。 かち。 かち。 まるで五人の位置を誰かが確認しながら、道を開いているようだった。「止まって」 朔が片手を上げた。 澪は背中へぶつかりかけ、足を止める。 右側の壁に、細い横穴が開いていた。 高さは目の位置ほど。横幅十センチほどしかない。換気口にしては不自然で、縁だけ埃が薄い。 朔が懐中電灯を消し、穴へ目を近づけた。「何が見える?」 澪が囁く。「放送室」 朔が横へずれた。 澪も覗く。 壁の向こうに、透が死んだ放送室が見えた。 壊された扉。 床の血痕。 切断された黒い磁気テープ。 オープンリール式録音機。 見える角度は、透が倒れていた位置を真正面から捉えている。 もし誰かがここに立っていたなら。 透が首へ絡んだテープを外そうともがく姿を、最後まで見ていられた。 澪は目を離した。 首筋が冷える。「これ、覗き穴……?」 奈々香の声が細い。「そう見える」 美月が答えた。 数メートル進むと、また穴があった。 今度は音楽室。 グランドピアノを横から見下ろす位置。 ソレノイドの仕掛けを調べていた五人の姿も、ここからなら死角なく見えていたはずだ。 次は女子トイレ。 四番目の個室を隠す壁の裏側。 さらに舞踊室。 一方通行の鏡の向こう。 奈々香が足を止めた。「ずっと……見てたってこと?」 誰も返事をしなかった。 鏡の中で自分だけが遅れたとき。 耳から血が流れたとき。 四番目の個室へ閉じ込められたとき。 誰かが壁の向こうから、その恐怖を見ていた。 それも、怪異が起きた結果を偶然確認したのではない。 最初から見るために穴を開けている。 澪は背後の奈々香が呼吸を乱す